愛知県豊田市――トヨタ自動車のお膝元に、四隅から空に向かって伸びる4本の白いマストが立っています。豊田スタジアム(2001年7月開場)は、その姿だけで「ただのスタジアムではない」と分かる建築です。設計はメタボリズムの旗手として知られる黒川紀章。橋のように屋根を吊り、その下地に木の集成材を使い、しかも屋根が開閉する――この3つを1棟に統合した競技場は世界でもほとんど例がありません。名古屋グランパスの本拠地として、またラグビーW杯2019の会場として、四半世紀にわたり大舞台を担ってきました。
黒川紀章が「サッカーのためだけ」に設計した
構想が動き出したのは1990年代初頭。豊田市が市街地中心部に世界に誇るサッカー専用スタジアムをつくる計画でした。国立新美術館や中銀カプセルタワーで知られる黒川紀章が設計者に選ばれ、1999年着工、2001年7月7日に開場します。施工は鹿島・大林・大成・竹中ほかのJV。総工費約344億円のうち、特殊な屋根構造関連だけで約110億円を占めたと言われ、この建物がいかに屋根に賭けていたかが分かります。
設計を貫いているのは「サッカー観戦のためだけに最適化する」という強い意志です。陸上トラックを併設しないことで、最前列からタッチラインまでわずか約7mという国内随一の近さを実現しました。観客の臨場感も、選手が受けるプレッシャーも、これによって極限まで高まる。Jリーグでも屈指の「アウェイに恐れられるスタジアム」と呼ばれる所以です。
橋の技術で屋根を吊る
豊田スタジアム最大の特徴は、競技場としては極めて異例のサスペンション(吊り)屋根構造です。四隅に立つ高さ80mの4本の鉄骨マストから、PC鋼線製のメインケーブルを放射状に張り、その下に屋根面を懸架する――橋梁工学をそのままスタジアムに持ち込んだ発想です。屋根の自重の大部分はケーブルを通じてマストへ集約され、最後は基礎で受け止められます。
この方式が生む効果は3つ。まず引張材(ケーブル)と圧縮材(マスト)に役割を分けることで、屋根面そのものを薄く軽くでき、鉄骨ラーメン換算で屋根重量を約4〜5割減らせます。次にマスト間が約240mと大きく、観客席上空に支柱が一切ない開放的なスタンドが成立する。そして屋根のサブ構造材に木の集成材を使うことで、軽さと地域材活用の象徴性を両立させました。
屋根に使われた、中部のスギとヒノキ
屋根のサブ構造材として、木質集成材が約2,000m³使われました。中規模ホテル1棟分に相当する量で、当時のスタジアム建築では世界的にも稀な大規模木造です。樹種は中部地方産のスギ・ヒノキが中心。構造グレードのJAS適合材を厳選し、ラミナの含水率管理、フィンガージョイント接合、レゾルシノール樹脂による高強度接着と、当時最高水準の品質管理が積み重ねられました。
これは愛知・岐阜・長野の林業・製材業に大きな特需を生み、地域材ブランディングの先行事例になりました。木材は鉄骨やコンクリートより製造時のCO₂排出が圧倒的に低く、大気中の炭素を長く固定します。約2,000m³の集成材は、ざっと700トン-C相当の炭素を建物の中に閉じ込めている計算です。後の有明体操競技場や住友林業W350構想、北欧のSara Kulturhusへと続く大規模木造の潮流を、豊田スタジアムは20年早く先取りしていたとも言えます。
開いて閉じる屋根――そして止まった機構
開場当時の最大の話題は、開閉式屋根でした。屋根中央の約95m×85mの開口を、4枚の可動パネルが東西からスライドして開閉する。狙いは「晴天時は天然芝にたっぷり日を当て、雨天時は閉じてピッチを守る」こと。サッカー専用としては札幌ドームと並ぶ国内2例目の本格採用でした。
ところが運用は当初から難航します。4枚パネルの同期制御、風荷重時の停止条件、閉じた状態での雨水・積雪荷重――可動機構特有のトラブルが続き、老朽化に伴う修繕費が年数億円規模に膨らむ見込みとなりました。豊田市は2015年、可動機構の運用停止を決定。以降は屋根を閉じた固定状態で運用しています。芝への日照確保はグロウライト(人工照明)育成で代替され、ピッチ品質は保たれています。可動復活には数十億円が必要とされ、現状では難しいと判断されました。これは単なる失敗というより、開閉機構をライフサイクルコストの視点でどう設計すべきか、という重い教訓を後続のドーム施設に残しました。
名古屋グランパスの本拠地として
豊田スタジアムは、Jリーグ・名古屋グランパスのホームの一つです。グランパスはJリーグ創設のオリジナル10メンバーで、ストイコビッチ(ピクシー)をはじめ多くの名選手が在籍し、2010年にはJ1優勝も果たした名門。ここでの主催試合は年間9〜12試合ほどで、ダービーや好カードでは満員に膨れ上がります。屋根の高さと開放感、ピッチへの近さは観戦体験として高く評価され、サポーター満足度調査でも常に上位です。
サッカー以外でも大舞台を担ってきました。2019年ラグビーW杯日本大会では4試合を予定し、日本対サモア戦は日本代表が勝利してベスト8進出に貢献した歴史的な一戦に(ニュージーランド対イタリアは台風で中止)。東京2020五輪のサッカー会場にもなり、B’z・Mr.Children・サザンオールスターズらの大型スタジアムライブの会場としても親しまれています。
収容人数こそ世界トップクラスではありませんが、「木質集成材・吊り構造・開閉式屋根」の3要素を統合した点で、豊田スタジアムは世界でもほぼ唯一の存在です。アリアンツ・アレーナはETFE膜の美しい外装だが鉄骨主体、ウェンブリーはアーチで開閉屋根を持つが木造ではない――いずれも木を構造に大規模採用したスタジアムではありません。
四半世紀を支える、特殊な維持管理
吊り+木造という構造は、維持管理も独特です。PC鋼線ケーブルは温度変動や経年で張力が変わるため、専用装置による張力測定(年1〜2回)と必要に応じた再緊張を欠かせません。集成材は紫外線や温湿度で表面が劣化するので、防腐・防虫処理を10〜20年スパンで更新。木材と鉄骨の接合金物や木材どうしのジョイントは、目視・打診・含水率測定で継続観察します。停止中の可動機構部品も、腐食を防ぐため最低限の点検が続いています。
裏を返せば、これらの記録はサスペンション木造構造の長期信頼性に関する貴重な実証データそのもの。有明体操競技場やPort Plus、住友林業W350構想といった後続の大規模木造設計に、豊田スタジアムの蓄積が生きています。日本の木造建築の歴史と未来を同時に体現する建築遺産――それが、この4本マストのスタジアムです。
- 豊田スタジアム公式サイト
- 黒川紀章建築都市設計事務所
- 名古屋グランパス公式
- 『新建築』2001年8月号 豊田スタジアム特集
よくある質問
Q. なぜ屋根の開閉機構が止まっているのですか?
2015年、豊田市が可動機構の老朽化と維持コスト高騰を理由に運用停止を決めました。修繕には数十億円規模の追加投資が必要とされ、現在は固定運用です。観戦に支障はなく、天然芝への日照は人工照明(グロウライト)で代替しています。
Q. アクセス方法は?
名鉄三河線「豊田市駅」から徒歩約15分、または愛知環状鉄道「新豊田駅」から徒歩約17分。車では東名高速・豊田JCT経由で、専用駐車場(要事前予約・有料)があります。試合時はシャトルバスも運行されます。

コメント