照葉樹林の小径で、足元に落ちていた常緑の葉を一枚拾って、指でくしゃっと揉んでみる。ふわりと立ちのぼるのが、お菓子でおなじみの甘いシナモンの香りだったら——それがヤブニッケイ(藪肉桂、Cinnamomum yabunikkei)です。和名は「藪に生えている肉桂(ニッキ)」の意味。畑で大事に育てられる本家のニッケイに対して、こちらは西日本の山や海辺に、誰に頼まれるでもなく勝手に生えている野生のニッキです。派手さはありませんが、葉を一枚揉むだけで名前がわかる、数少ない「香りで同定できる木」でもあります。
葉を一枚、揉んでみてください
クスノキ科の常緑樹はどれも「厚くて、つやがあって、細長い葉」をしていて、慣れないうちは全部同じに見えます。ところがヤブニッケイには、初心者でも外さない決め手が二つあります。
一つめが香り。葉を揉むと、甘く柔らかいシナモン系の香りが立ちます。同じ属のクスノキが樟脳(しょうのう。防虫剤のあの鋭い匂い)なので、嗅いだ瞬間に区別がつきます。二つめが葉脈。葉の付け根から、太い主脈といっしょに2本の側脈がすっと立ち上がり、葉の半分以上を並んで走ります。これが「三行脈(さんこうみゃく)」。葉を陽にかざすと、フォークのように三本すじが浮かび上がります。
葉そのものは長楕円形で長さ6〜12cm、幅2〜5cm。厚い革質で表面は光り、裏返すと白い粉を吹いたような淡い色をしています。6〜7月には葉腋から黄緑色の地味な小花を出し、10〜11月には長さ1.5cmほどの実が黒紫色に熟して、ヒヨドリやメジロが食べに来ます。

クスノキ科の「そっくりさん」を見分ける
照葉樹林で出会うクスノキ科の常緑樹は、ヤブニッケイのほかにクスノキ、シロダモ、タブノキが代表格。この4種は、香り・葉脈・葉裏の三点セットでほぼ確実に区別できます。
順番はこうです。まず葉を揉んで嗅ぐ。樟脳臭ならクスノキ、甘いニッキ香ならヤブニッケイ。香りが弱ければ、次に葉を裏返す。銀白色に光ればシロダモ。最後に葉脈を見て、三行脈がなく羽状脈ならタブノキ。慣れると数秒で片がつきます。
八ツ橋の「ニッキ」は、じつは別の木
ここで、多くの人が引っかかるところを整理しておきます。京都の生八ツ橋やニッキ飴のあの香り——あれはヤブニッケイではありません。
日本で「ニッキ」と呼ばれてきた香辛料は、近縁のニッケイ(肉桂、Cinnamomum sieboldii)の根の皮から採るものです。同じシナモンの仲間でも、セイロンニッケイが枝の皮を使うのに対し、日本のニッキは根皮を使う。だから香りの立ち方も違い、ニッキのほうが辛味と甘さがくっきりします。ニッケイは徳之島や沖縄島に自生し、江戸中期以降に九州・四国・本州南部で栽培されるようになりましたが、現在は商業生産がほぼ途絶えており、和菓子の香りづけには中国原産のシナニッケイ(カシア)が代用されています。「京都名物のニッキ」の中身が、いま日本産ではないというのは、少し寂しい話です。
では藪のニッキ、ヤブニッケイはどうか。香りの主成分は同じシンナムアルデヒドですが、含有量が違います。商業用シナモンの原料であるセイロンニッケイは、樹皮から採れる精油の65〜80%をこの成分が占めるのに対し、ヤブニッケイは葉の精油で数%〜20%台と幅があり、平均すればずっと控えめ。香りもおだやかで、甘さにわずかな青くささが混じります。本格的なスパイスの代用にはなりませんが、逆にいえば主張しすぎない。和ハーブとして楽しむには、ちょうどいい強さです。
実は油、葉と樹皮は薬——藪の万能樹
ヤブニッケイは、香り以外の使い道も持っています。黒紫色に熟した実の種子には油脂が多く含まれ、蝋燭の原料として利用されてきました。木蝋といえばハゼノキが有名ですが、南西諸島や西日本の海岸部では、ヤブニッケイの実も灯りを支える身近な資源でした。葉や樹皮は煎じて薬用にされ、種子からは香油も採れます。
沖縄では「シバキ」「オウシバキ」「ジクミ」「ジックン」といった方言名で呼ばれ、暮らしのなかに溶け込んできました。別名も多く、本土では「マツラニッケイ」「クスタブ」「クロダモ」など。呼び名の多さは、それだけ各地の人が個別に名前をつけるほど身近だった証拠でもあります。木材は建築材・器具材として使われますが、大径材が採れにくく流通量は多くありません。クスノキのように大木になって御神木として祀られる、という道は歩まなかった木です。

照葉樹林の「二番手」という生き方
ヤブニッケイは、スダジイやタブノキ、カシ類が高木層を占める照葉樹林の、そのすぐ下——中木層を担う樹種です。主役ではなく、脇を固める二番手。この位置取りが、この木の性格をよく表しています。
耐陰性が強く、暗い林床でもじっと待てる。台風や倒木で林冠に穴(ギャップ)が空くと、そこへ一気に伸びる。伐られても切株から複数の幹を再生する萌芽力が強く、社寺の境内林では株立ち状になった老木があちこちで見られます。耐潮性もそこそこあるので、海岸林ではタブノキやスダジイに混じって二次林をつくります。一方で寒さには弱く、北関東以北の内陸では冬を越せません。自然分布の北限は資料によって幅があり、近畿以南とする説と、本州の太平洋側を福島県あたりまでとする説の両方があります。
庭木・生垣として
常緑で年中緑陰をつくり、剪定に強く、葉に香りがある。この三拍子から、暖地では庭木や生垣、社叢林の構成樹としてよく使われます。生垣や園路沿いに植えておくと、通りすがりに枝葉が触れてふっと香りが立つ——五感に訴える植栽ができるのが、ほかの常緑樹にはない魅力です。
植えるなら関東以西。日なたから半日陰まで対応し、適度に湿った土を好みます。極端に乾いた場所と、北関東以北の内陸は避けてください。萌芽力が強いので刈り込みへの反応もよく、年1〜2回の剪定で形が保てます。実生でよく殖えるため、庭に見慣れない常緑の芽生えがあったら、葉を揉んで香りを確かめてみるとヤブニッケイだった、ということもよくあります。
よくある質問
ヤブニッケイとシナモンは同じ香りですか?
主成分は同じシンナムアルデヒドなので方向性は近いのですが、含有量が大きく違います。商業用シナモン(セイロンニッケイ)は樹皮の精油の65〜80%を占めるのに対し、ヤブニッケイは葉の精油で数%〜20%台。香りはずっと穏やかで、甘さに青さが混じります。八ツ橋の「ニッキ」は、さらに別種のニッケイの根皮です。
クスノキとの違いは?
同じクスノキ科ニッケイ属(クスノキ属)ですが、香りが決定的に違います。クスノキは樟脳の鋭い香り、ヤブニッケイは甘いスパイス香。葉を一枚揉んで嗅げばすぐ分かります。葉形もクスノキは卵形、ヤブニッケイは細長い長楕円形で、クスノキは葉脈の分かれ目に「ダニ室」と呼ばれる小さなふくらみがあります。
葉や実は食べられますか?
葉は香りづけに少量使う程度にとどめてください。シンナムアルデヒドは多量に摂ると肝臓や皮膚への刺激が報告されています。実は鳥のための食べ物で、人が生食するものではありません。種子の油は、かつて蝋燭などに使われた不食用の油脂です。
庭木にできますか?
関東以西なら可能です。常緑で剪定に強く、生垣にも向きます。ただし北関東以北の内陸では越冬が難しく、極端に乾いた場所も苦手なので、適度に湿った土を選んでください。放任すると10〜20mの高木になりうるので、樹高を抑える剪定を前提に植えるのが現実的です。

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