東京・千駄ヶ谷の国立競技場を見上げると、屋根のいちばん外側、ぐるりと一周する軒のひさしが木でできていることに気づきます。ここに使われているのは、北海道から沖縄まで47都道府県すべてのスギ・カラマツ。隈研吾が「杜のスタジアム」と呼んだこの建物は、コンクリートと鉄骨の体に木の衣をまとわせた、日本最大級の都市木造ハイブリッドです。
まずは基本データ
| 所在地 | 東京都新宿区霞ヶ岳町 |
|---|---|
| 用途 | 陸上競技場・球技場(メインスタジアム) |
| 設計 | 大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所JV |
| 規模・高さ | 地下2階・地上5階 / 47.4m |
| 収容人数 | 約60,000人(最大68,000席対応) |
| 工期 | 2016年12月着工 / 2019年11月竣工 |
| 総工費 | 約1,569億円 |
| 木材使用量 | 約2,000m³(庇・内装合計/炭素貯蔵 約1,650 t-CO₂) |
ザハ案の白紙撤回から「木と緑」へ
この競技場の出発点には、有名な仕切り直しがあります。2012年の国際コンペでは英国ザハ・ハディド・アーキテクツの流線形アーチ案が選ばれましたが、総工費が当初の1,300億円から最大3,000億円規模に膨らむ見通しとなり、2015年7月に白紙撤回。同年末の再公募で、大成建設・梓設計・隈研吾JVのA案が選ばれ、方針は「木と緑のスタジアム」へ大きく舵を切りました。
再公募の条件はコスト1,550億円以下、工期36ヶ月以内、そして「日本らしさの表現」。隈研吾が30年来こだわってきた地域材活用と、高さを75mから47.4mへ抑えた低層ヒューマンスケールの設計が、明治神宮外苑のスカイラインとも調和すると評価されました。
47都道府県の木が集まる軒のひさし
建物をぐるりと囲む軒のひさしには、47都道府県すべてのスギ・カラマツが使われ、軒裏には小さな県名プレートが時計回りに配されています。「日本各地の森が東京に集まる」というコンセプトを、文字どおり形にしたものです。
| 地域ブロック | 主要樹種 | 主な産地 |
|---|---|---|
| 北海道 | カラマツ | 道東・道北の道有林 |
| 東北6県 | スギ・カラマツ | 秋田・岩手・福島 |
| 関東甲信 | スギ・カラマツ | 群馬・長野・栃木 |
| 近畿 | スギ | 奈良吉野・三重尾鷲 |
| 九州 | スギ | 宮崎・大分・熊本 |
| 沖縄 | リュウキュウマツ | 本島北部やんばる |
面白いのは沖縄県の扱いです。本州型のスギ・カラマツ産地が乏しいため、やんばるの県有林から伐り出した琉球松(リュウキュウマツ)を特例として採用し、那覇港から海上輸送して南面の軒裏化粧板に充てました。47という数字を埋めるための、ちょっとした工夫です。木材は各県森連の合法木材証明(クリーンウッド法対応)と、FSC・SGEC等の森林認証またはトレーサビリティを前提に集められました。
軒のひさしは5層のサンドイッチ
軒のひさしは単なる板ではなく、5層構造の複合屋根です。最上部はチタン亜鉛合金の金属屋根で防水を担い、その下に通気層、構造用合板の野地板、カラマツ集成材の主要垂木(約105×240mm)とスギ集成材の小梁、そしていちばん下の見える面に化粧スギ板が来ます。観客が見上げて目にするのは、この最下層です。
軒の出は最大3.5m、総延長は約1.6kmに達します。夏至の高い日射は遮り、冬至の低い光は内部に届くよう傾斜が設計されています。化粧板はあえて無塗装で、外気に触れて少しずつ銀白色(ウェザリング)に変わっていく計画。数年かけて黄白色からシルバーグレーへと表情を変えていくこと自体が、デザインの一部とされています。
木造なのに大規模スタジアムが成立した理由
建築基準法では、収容6万人規模の特殊建築物は耐火建築物でなければなりません。木造の庇をそこに組み込むため、本プロジェクトは建築基準法第21条に基づく「特定避難時間建築物」の認定を取得しました。特定避難時間は90分。木材は外側15mmが燃えても内側の構造が90分間自立する「燃え代設計」とし、スプリンクラー・自動排煙・避難路を統合することで、国土交通大臣の個別評定をクリアしています。
これによって「都心立地の6万人スタジアムでも木造ハイブリッドが成立する」というベンチマークが確立しました。以後の都市木造プロジェクトにとって、法的に道を切り開いた事例という意味でも大きな建物です。
木のコストと、環境への効き目
庇・内装を合わせた木材関連コストは約45億円。総工費1,569億円のわずか2.9%にすぎませんが、この建物の「顔」を担っています。47都道府県から均等に調達するという政策的な目的があったため、市場価格を上回る単価で買い上げた県もありました。
環境面では、使用木材が約1,650 t-CO₂の炭素を貯め込み、同規模の純鉄骨案と比べて建設時CO₂を約13%削減。屋根には約1.45MWの太陽光パネルも載っています。2024年の能登半島地震(M7.6、東京は震度4)の際には翌日に緊急点検が行われ、木造庇・鉄骨主構造ともに損傷なしが確認されました。鉄骨の剛性と木造庇の柔らかさを組み合わせたハイブリッドな揺れ方をする設計です。
隈研吾の集大成として
隈研吾(1954年生)は、那珂川町馬頭広重美術館の八溝杉、梼原の地域材、サニーヒルズ南青山の「地獄組み」と、一貫して地域材と木組みを追求してきた建築家です。国立競技場は、その30年来の実験を都心の超大型公共建築で結実させた作品といえます。
「主構造は鉄骨で、本質は表層的な木質化にすぎない」という批評もありますが、隈は「100%木造は防火基準上不可能であり、ハイブリッドこそが都市の現実解」と一貫して反論しています。2020年には日本建築学会賞(作品)を受賞。竣工後の3年間で公共建築物等木材利用促進法に基づく木造化件数が約1.7倍に増えるなど、後続の都市木造を確実に後押ししました。
産地の人々にとっての意味
各県の林業者にとって、このプロジェクトは「東京の象徴に自県の木を出せる」という大きな誇りでした。日本最大のスギ生産県・宮崎は最大級の納材量を担当し、含水率や節径のチェックを通常出荷の3倍の頻度で行ったといいます。北海道のカラマツは寒冷地育ちで年輪が緻密で曲げ強度が高く、主要垂木に重用されました。奈良吉野は樹齢100年級の目の詰まった芯持ち材を、見え掛かりの化粧梁に重点配分。岩手・秋田・福島の東北勢には、震災復興林業の象徴という意味も重なりました。
オリンピック後のいま
東京2020大会後、競技場はサッカー日本代表戦や天皇杯決勝、ラグビーのテストマッチ、大型コンサート(6万8千人対応)などに使われています。5階の空中回廊「空の杜」は無料で年中開放され、地域材の軒裏を間近で観察できる場所として人気です。2025年には民営化方針が固まり、2026年度から30年間のコンセッション方式運営に移行する見通しです。
よくある質問
Q. 47都道府県の木はどう見分けるの?
軒裏に小さな県名プレートが時計回りに配されています。北面が北海道〜東北、東面が関東〜中部、南面が近畿〜中国、西面が四国〜九州〜沖縄の順です。
Q. 一般見学はできる?
ピッチやロッカールームを巡るスタジアムツアーが定期開催されています。5階の「空の杜」回廊は無料・年中開放で、軒裏の地域材を間近に見られます。
Q. なぜ沖縄だけリュウキュウマツ?
沖縄県には商業流通する本州型スギ・カラマツの産地が少ないため、47都道府県の網羅性を確保する目的で県有林の琉球松を特例採用しました。

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