柱を一本も立てずに、90mもの空間を木で覆う――東京・有明にあるその建物を見上げると、まず屋根の伸びやかさに目を奪われます。東京2020オリンピックの体操・トランポリン会場として2019年に完成した有明体操競技場は、北海道・長野県産のカラマツ集成材で約90mのスパンを飛ばした、国内では前例のない規模の木造大空間です。設計は日建設計、施工は清水建設。鉄ではなく木で、しかもわずか23.5か月という超短工期で、この大屋根はどう実現されたのか。プロジェクトの核心をたどります。
なぜ五輪施設をあえて木造にしたのか
東京2020大会は「サステナビリティ」を主要メッセージの一つに掲げました。再生可能資源である国産木材を競技施設に大量投入することは、CO2の固定、地方林業の活性化、そして木造建築の国際的なアピールを、一度に達成できる手段でした。なかでも有明体操競技場は、木材使用量・木造構造の規模ともに大会施設で最大のフラッグシップとして企画されます。
東京都は当初から「大会後の後利用」を必須条件とし、仮設ではなく恒久施設として整備する方針を取りました。そのため設計には、競技モードと展示モードの両方を成立させる柔軟性が求められ、可動座席や大空間フラット床、搬入動線といった構成が練り上げられていきました。
90mを飛ばす仕掛け ── 木と鋼の張弦梁
この建物の心臓部が、屋根の大スパン構造です。会場中央のスパンは約90mに達し、大断面集成材を使った張弦梁(ちょうげんりょう)という形式で実現されています。仕組みはシンプルで、上側に圧縮を受け持つ木の大梁を、下側に引張を受け持つ鋼のケーブルを配し、その間を斜めの束でつなぐというもの。木は圧縮に強い一方で引張に弱いため、弱点を鋼に肩代わりさせる「適材適所」の役割分担こそが、木造で90mを飛ばす成立要件になっています。
使われた集成材は北海道・長野県産カラマツの大断面材で、大梁1本あたり長さ約90m、断面はおよそ1.5m角という巨大なもの。高強度のラミナ(薄板)を多層に接着し、構造計算で求められる長期の許容応力を確保しています。梁は約3.6m間隔で並び、梁の間に張った屋根面ブレースが水平の構面をつくることで、屋根全体が一体となって地震時の水平力を支柱と基礎へ伝えます。
カラマツとスギ、2,600m³の使いどころ
木材使用量は約2,600m³。屋根大梁のカラマツ集成材が約1,670m³と中心を占め、ほかに天井の羽目板や内部造作にスギ・ヒノキの無垢材や集成材が使われています。屋根大梁のカラマツは北海道や長野県の人工林から、いずれも合法木材証明や森林認証を満たした材で調達されました。
見上げたときに目に入るスギの天井板は、空間に木の温かみを与えるだけでなく、音響の役割も担っています。スギは吸音特性に優れ、観客の歓声や拍手の残響を約1.8〜2.2秒という心地よい範囲に収めるのに一役買っているのです。床運動の音楽と平均台の静けさが交互に求められる体操競技にとって、これは大きな意味を持ちます。
23.5か月を支えたリフトアップ工法
オリンピック開幕という動かせない締め切りに対し、建設はわずか23.5か月で完了しました。その鍵がリフトアップ工法です。まず地上で大屋根の張弦梁ユニットをほぼ完成形まで組み上げ、それを複数の油圧ジャッキで一気に正規の高さまで押し上げて支柱に接合する――という手順です。高所での危険な作業を最小化しつつ、施工スピードを劇的に高められます。
難しいのは押し上げの同期制御で、各ジャッキのリフト量をミリ単位で監視しながら進めます。同期がずれると屋根面に予期せぬねじれが生じ、最悪の場合は接合部の破壊につながるためです。清水建設は東京ドーム改修や国立代々木競技場改修などで培った鉄骨大屋根のリフトアップ技術に、木造特有の手順を組み合わせてこれをやり遂げました。ここで蓄積したノウハウは、その後の大阪・関西万博 大屋根リングなどにも引き継がれています。
世界の大スパン木造と並べてみる
純木造で90m級のスパンは世界的にも稀で、有明体操競技場は最先端事例の一つに数えられます。
| 施設 | 所在地 | 主要スパン | 用途 |
|---|---|---|---|
| 有明体操競技場 | 東京 | 約90 m | 体操競技場→展示場 |
| Richmond Olympic Oval | カナダ | 100 m級 | 2010五輪スケート場 |
| 万博 大屋根リング | 大阪 | 30m帯×周長2km | 仮設展示空間 |
| Centre Pompidou-Metz | 仏メッツ | 40 m | 美術館 |
カナダのRichmond Olympic Oval(2010バンクーバー五輪)は、松枯れ被害材を活かした木造大屋根の有名事例で、有明体操競技場とともに「五輪レガシーの木造大空間」の双璧と言われます。五輪を契機に各国が木造大空間の最先端を競う流れを象徴する存在です。
大会のあと ──「有明GYM-EX」として生き続ける
東京2020大会後、この施設は座席を撤去して展示場「有明GYM-EX(ジムエックス)」へ転用されました。約13,000m²の大空間は展示会・コンサート・スポーツイベントなど多目的に使え、隣接する東京ビッグサイトと補完し合いながら、湾岸エリアの大型イベント受入容量を広げています。年間で数十件規模のイベントを受け入れる稼働ぶりです。
木造大屋根は構造を改変せずそのまま残せる設計だったため、転用コストは新築に比べ低く抑えられました。あの伸びやかな木の屋根は、来場者を惹きつける魅力としていまも機能し続けています。木材は約2,600m³で概算1,300〜1,500トンのCO2を固定しているとされ、その炭素は建物が使われ続ける限り大気に戻りません。競技施設としての役目を終えてもなお、環境価値とともに街に残る――有明体操競技場は、五輪レガシーと木造大空間がどう両立しうるかを示した、ひとつの完成形といえます。

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