白いすべすべした幹のブナと並んで、黒っぽくざらついた幹をもつ木があります。イヌブナ(Fagus japonica)です。ブナが「シロブナ」なら、こちらは「クロブナ」。同じブナ属の兄弟でありながら、ブナが奥山の原生林の主役なのに対して、イヌブナは人里に近い里山の二次林で活躍してきた、私たちの暮らしにより近い木です。名前の「イヌ」は「ブナに似て少し劣るもの」という昔ながらの呼び方ですが、実際の性能差はごくわずか。家具や合板の世界では、ブナとほぼ同じ材として扱われています。
ブナとの見分け方
イヌブナとブナはよく似ていますが、見分けのコツは3つあります。
- 樹皮:イヌブナは黒褐色でざらざら、ブナは灰白色でなめらか。古木ほど差がはっきりします。
- 葉のふち:イヌブナははっきりしたギザギザ(鋸歯)、ブナはなだらかな波状。
- 葉裏の毛:ルーペで見て黄褐色の長い毛が密生していればイヌブナ。ブナは白っぽい絹毛です。これが決定打。
生えている場所も手がかりになります。標高の低い里山や南向きの尾根に多いのがイヌブナ、多雪の北斜面や高い標高に多いのがブナ。イヌブナは切り株から新しい芽(ひこばえ)を出す力が強いので、株立ち(一株から何本もの幹)になっていることが多いのも特徴です。葉が落ちた11月でも、樹皮の色だけで9割方は見分けられます。
里山と歩んできた木
イヌブナの最大の個性は、この萌芽更新(ほうがこうしん)の力です。ブナは伐ると枯れてしまいますが、イヌブナは切り株から何本ものひこばえが立ち上がって再生します。この性質のおかげで、15〜25年ごとに伐っては芽吹かせる「薪炭林」として、江戸時代から繰り返し利用されてきました。薪や木炭、シイタケのほだ木を安定して供給する、持続可能な里山林業の主役だったのです。縄文時代の遺跡からも実(ドングリ)が出土し、古くから人の食を支えてきた歴史もあります。
流れが変わったのは1960年代の燃料革命。薪炭がガスや電気に取って代わられ、里山の手入れが止まると、イヌブナ林も伐られないまま大きく育ち、各地で「過熟二次林」になりました。近年は、森林環境譲与税を使った里山再生やバイオマス燃料、水源涵養といった文脈で、再びその価値が見直されています。
木材としての特徴
イヌブナ材は気乾比重0.57ほどの中くらいの重さで、よくしなって丈夫。性能はブナよりわずかに低い程度で、家具や合板の中堅材としてしっかり実用域にあります。下の図はスギを基準にした比較です。耐朽性は低いため屋外には向かず、室内向きの木です。
材は淡褐色で、放射組織がつくる「虎斑(とらふ)」という独特の縞模様が現れ、家具の意匠としても好まれます。ブナと同じく蒸気で曲げる加工に向き、曲木椅子の材料になるほか、合板の単板やフローリング、玩具やまな板など、幅広く使われます。オイル仕上げにすると虎斑がいちばん美しく映えます。実際には、市場ではブナと一緒に「ブナ材」として流通することが多く、消費者が両者を区別して買うことはほとんどありません。下の図に主な用途をまとめました。
里山のにぎわいを支える存在
イヌブナ林は、明るく開けた林床にカタクリやイワウチワといった春の花が咲き、ニホンリスやヤマガラ、カケスがドングリを運んで暮らす、生きもの豊かな森です。とくにヤマガラやリスは木の実を地中や樹皮のすき間に貯め込み、その「忘れ物」が翌春に芽を出して次の世代の木になります。林冠がブナ純林よりやや疎で光がよく入るぶん、林床の植物の種類はブナ林より多いことすらあります。人の手と自然が交わる里山の、にぎやかな生態系の土台になっているのです。
温暖化に対しては、もともと暖かい低標高に適応しているぶんブナほど深刻ではないとされます。ただし標高の低い地域では暖温帯化でシイ・カシ類に押される懸念もあり、地域ごとに分布が少しずつ動いていくと予測されています。
よくある質問
Q. 「イヌブナ」の「イヌ」ってどういう意味?
植物名の「イヌ」は「本物(この場合ブナ)に似て少し劣るもの」を表す昔ながらの呼び方です。ただし実際の強度差は約1割と小さく、家具・合板では実質同等品として扱われます。
Q. ブナとイヌブナ、どちらが多い?
面積で見るとブナ林のほうが圧倒的に広いですが、関東〜四国の太平洋側の里山では、二次林の主役としてイヌブナが多数派になる地域もあります。地域差の大きい木です。
Q. イヌブナ林を見られる場所は?
関東圏では奥多摩・丹沢・箱根、紀伊半島では大台ヶ原・大峰山系、九州では祖母山や霧島連山などが代表的です。丹沢の標高800〜1200m帯は太平洋型イヌブナ林の好適地で、新緑の5月と紅葉の10〜11月が観察しやすい時期です。
おわりに
イヌブナは、ブナの陰に隠れて地味に見えるかもしれません。けれど、伐っても芽吹く強さで里山の薪炭林を支え、ドングリで生きものを養い、いまも家具や合板の中で私たちの暮らしに溶け込んでいます。森と人の境界線に立つこの木は、放置された里山をどう活かすかという現代の問いの真ん中にいる存在でもあります。山で黒っぽい幹に出会ったら、葉裏をそっとめくって、黄褐色の毛を探してみてください。

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