コケ類のCO2固定能力再評価:ミズゴケと地球規模炭素循環

コケ類のCO2固定能力再評価 | Forest Eight

足元のコケは、見過ごされがちな小さな植物です。けれど、その仲間が数千年かけてつくる「泥炭(ピート)」は、世界でも有数の炭素の貯金箱になっています。世界の泥炭地はわずか陸地面積の約3%しかないのに、約600 GtC(ギガトン炭素)——陸上の炭素ストック全体のおよそ30%、世界の森林全体の1.3倍にあたる炭素を抱え込んでいるのです。この記事では、コケがどうやってこれほどの炭素を貯めるのか、その仕組みと、気候変動下で何が起きているのかを整理します。

世界の蘚苔類20,000+植物進化最古泥炭地炭素600+GtC世界貯留量陸上炭素比約30%泥炭地が占める泥炭地分布400万km²世界(陸上の3%)
図1:蘚苔類炭素貯留の主要諸元(出典:IPCC 2014 Wetlands Supplement、Global Peatlands Assessment 2022)
目次

4.7億年を生きる、地味で偉大な植物

コケ植物(蘚苔類)は、約4.7億年前に植物が陸へ上がった最古のグループの一つです。種子植物より約1億年も早く陸上に進出しました。根・茎・葉がはっきり分かれておらず、水を運ぶ維管束も発達していないため、体の表面から直接水を吸う「変水性」の体をもちます。乾けば休眠し、雨が降れば活動を再開する——この驚くほどのしぶとさが、極地から都市のコンクリートまで地球上のほぼあらゆる場所での繁栄を支えています。

仲間は世界に約2万種。なかでも炭素の話で主役になるのがミズゴケ属(Sphagnum)です。世界に約400種、日本には47種。透明細胞と緑色細胞の二型の細胞をもち、透明細胞が自重の20倍もの水を蓄えます。さらにフェノール化合物を分泌して周囲をpH3.5〜4.5の酸性に保つ性質があり、これが分解の抑制という、のちの炭素貯留の核心につながっていきます。日本では北海道のサロベツ原野や尾瀬ヶ原で、大面積の純群落を見ることができます。

泥炭はなぜ「分解されずに」溜まるのか

コケが世界の炭素循環で果たす最大の役割が、泥炭の形成です。泥炭地は地球上で単位面積あたりもっとも炭素密度が高い生態系で、1m²あたり約700kgの炭素を蓄えます。熱帯雨林(1m²あたり60〜80kg)の約10倍です。

ミズゴケなどの植物の遺体は、ふつうなら微生物に分解されて二酸化炭素に戻ります。ところが泥炭地では、それが起こりません。鍵は3つです。第一に嫌気性——水位が地表近くに保たれて酸素が遮断され、好気的な分解が止まります。第二に酸性化——ミズゴケが酸を出して微生物の活性を下げます。第三に低温——北方圏では分解速度が温帯の10分の1以下に落ちます。こうして植物遺体が分解されないまま、年に0.5〜2mmずつ、数千年から数万年かけて数メートルの泥炭層を積み上げていくのです。最深部には1万年以上前の堆積物が眠っています。

地域別泥炭地炭素貯留量(GtC)北方泥炭地500 GtC熱帯泥炭地75 GtC温帯泥炭地45 GtC高山・南半球15 GtC出典:Global Peatlands Assessment 2022(UNEP)
図2:地域別泥炭地炭素貯留量(GtC、世界合計約635 GtC)

図2のとおり、世界の泥炭炭素のおよそ8割はカナダ・アラスカ・シベリアの北方泥炭地に集中しています。一方、東南アジア(インドネシア・マレーシア)の熱帯泥炭地は約75 GtCと量は少なめでも、深さ3〜15mと厚く、火災リスクが高いのが特徴です。

日本の湿原——量は小さく、価値は大きい

日本の泥炭地は世界規模で見れば限定的(合計約2,000km²、世界の0.05%)ですが、生物多様性と景観の価値はとても高いものです。尾瀬ヶ原(群馬・福島・新潟、760ha)は日本最大の高層湿原で、約8,000年前から泥炭が蓄積し、最深部は4.5mに達します。釧路湿原(北海道、約2.8万ha)は1980年に日本で初めてラムサール条約に登録された湿地で、タンチョウなどの固有種が暮らし、泥炭層は最深部で10mを超えます。サロベツ原野(北海道、約6,700ha)は1970年代の排水・農地化で面積がおよそ半減しましたが、その後の保全と部分的な復元が進められています。

降水量が年4,000〜10,000mmにもなる屋久島の「苔生す森」では、約600種ものコケが森林床や樹皮を覆い、独特の景観をつくっています。これらの湿原や苔の森は、エコツーリズムや環境教育の貴重な舞台にもなっています。

炭素の貯金箱が「支出」に転じるとき

気候変動は、この巨大な炭素の貯金箱を脅かしています。問題は、泥炭地が炭素の吸収源から排出源へと転じる「ティッピングポイント」のリスクです。すでにシベリアなどでは永久凍土の下にあった凍結泥炭が解け始め、強力な温室効果ガスであるメタンの放出が増えています。乾燥化が進めば好気的な分解が促進され、気温が1度上がるごとにCO2排出が約100g/m²/年増えるという実験結果もあります(Royal Holloway大学)。

とりわけ深刻なのが火災です。乾いた泥炭地はきわめて燃えやすく、2015年のインドネシア・マレーシアの大規模泥炭火災は約1.5 PgのCO2を放出しました。これは世界の年間排出量の約4%に相当します。排水や農地転換で劣化した泥炭地(世界で約4,500万ha)からは、いまも年間およそ2 GtCO2が排出されています。IPCCの第6次評価報告書(2021年)は、泥炭地の保全を「コスト効果的な気候対策の最優先事項」と位置づけました。

守り、再び湿らせる——世界と日本の取り組み

世界各地で、劣化した泥炭地を再び湿らせる「再湿地化」が進んでいます。かつて燃料として大規模に泥炭を掘ってきたアイルランドは、2020年から「Peatlands Climate Action Scheme」で約3.3万haの復元を目標に掲げ、排水路を閉じて水位を戻し、ミズゴケを植え直しています。年間約330万トンのCO2排出削減が見込まれています。ドイツでは2011年に泥炭地のカーボンクレジット制度「MoorFutures」が始まり、インドネシアは2015年の大火災を受けて約260万haの復元を進めています。

日本でも、釧路湿原で2010年から釧路川の蛇行を復元する事業が、サロベツ原野では2005年から水位を回復する取り組みが、国営事業として行われています。ただし、いったん失われた泥炭地の機能が完全に戻るには数十年から数百年を要します。だからこそ、まだ健全な泥炭地を「壊さずに守る」ことが、何より重要なのです。

こうした保全は、いまや国際的な炭素市場とも結びついています。自主的炭素市場での泥炭地クレジットは2024年時点で1トンCO2あたり10〜50ドルで取引され、生物多様性などの共同便益を重視するプロジェクトでは100ドルを超えることもあります。MicrosoftやAppleといった企業が主要な購入者です。森林造成より低コストで大きな効果が見込めることから、泥炭地の保全は気候変動への「自然解決策(NbS)」の代表例として、これからますます注目されていくでしょう。

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この記事を書いた人

ハウスメーカーで住宅の構造を担当したのち、林業の世界へ。林業・木材・建築の3領域を横断する視点で、Forest Eight の記事を編集しています。

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