富士山の五合目、八ヶ岳の縞枯山、奥秩父や南アルプスの針葉樹林帯——北海道のエゾマツにそっくりな高木が、本州の山の上に点々と残っています。それがトウヒ(Picea jezoensis var. hondoensis、ホンシュウトウヒ)です。氷河期の名残として山頂に取り残された「氷期遺存種」で、木材としてより、生き残りそのものが貴重な木。ここではその素性と、いま置かれている状況を整理します。
「トウヒ」という名前のややこしさ
少し混乱しやすいのですが、「トウヒ」はトウヒ属(Picea)という属の名前でもあり、本州亜高山帯型の変種名でもあります。この記事で扱うのは後者の狭い意味のトウヒ=ホンシュウトウヒ。北海道のエゾマツの「本州バージョン」と位置づけられますが、独立種(P. hondoensis)として扱う研究者もいて、分類はまだ決着していません。近年の遺伝解析では北海道のエゾマツとはっきり分かれることが分かってきており、独立種扱いを支持する見方も増えつつあります。
山の上に取り残された木
ホンシュウトウヒの集団は、富士山・八ヶ岳・北アルプス・南アルプス・奥秩父・紀伊半島の大峰山系など、それぞれの山ごとにバラバラに隔離されています。これは約2万年前の氷期最終期に本州の亜高山帯で連続していた森が、その後の温暖化で標高を上げざるを得なくなり、各山頂に取り残された結果と考えられています。つまり一つひとつの山の集団が、独自の進化史を背負った「島」のような存在。なかでも南限にあたる紀伊半島・大峰山系の集団は個体数がごくわずかで、地域絶滅のリスクが最も高いとされています。
見分け方
亜高山帯では同じような針葉樹がいくつも混じって生えています。ポイントを絞ると見分けやすくなります。
- 葉:四角い断面で先端がとがり、葉の裏に2本の白い気孔線。シラビソやオオシラビソ(モミ属)は葉先が凹むので、ここで区別できます。
- 球果(まつぼっくり):長さ4〜7cmで下向きに垂れ下がる。モミ属は逆に上を向いて立つので、わかりやすい違いです。
- 樹皮:灰褐色〜黒褐色で、鱗片状に剥がれます。
- 立地:本州中部の標高1,500m以上でトウヒ属に出会えば、まずホンシュウトウヒです。
なお富士山周辺などの植栽地には、園芸用のドイツトウヒ(Picea abies)が「トウヒ」として植えられていることがあります。自然分布のホンシュウトウヒと混同しないよう注意したいところです。
木材としては「幻の響板材」
材としての性能はエゾマツとほぼ同じ。気乾比重0.42〜0.45と軽めながら、曲げヤング係数10〜12GPaと剛性は高く、シラビソなどのモミ属よりはっきり高強度です。亜高山帯でゆっくり育つため年輪幅は0.5〜1.5mmと細かく、木目が緻密。これが楽器の響板材として理想的な性質につながり、歴史的にはバイオリンやピアノの響板、琴や三味線の胴材として、信州・甲州・木曽などで珍重されてきました。
ただし現在、ホンシュウトウヒの木材はほとんど流通しません。分布域の大半が国立公園や保護林に重なり、商業伐採が原則禁止されているからです。市場に出るのは台風被害木や除伐材くらいで、楽器材・文化財修復材として樹齢証明付きで高値取引される、まさに「幻の材」になっています。
| 項目 | ホンシュウトウヒ | エゾマツ(参考) |
|---|---|---|
| 気乾比重 | 0.42〜0.45 | 0.42〜0.45 |
| 曲げ強度(MPa) | 74〜86 | 74〜86 |
| 曲げヤング係数(GPa) | 10〜12 | 10〜12 |
| 木材利用 | 大半が保護林内のため流通はほぼ皆無 | |
気候変動という時限爆弾
山頂に取り残された木にとって、温暖化は逃げ場のない脅威です。各種の分布予測では、RCP8.5(高排出)シナリオの場合、2100年までに生育適地が現在の2〜3割程度まで縮小するとされます。標高上限が+200〜400m上がっても、すでに分布上限が山頂と一致している集団には「上へ逃げる」余地がありません。しかもトウヒは寿命200〜400年、林冠に届くまで80〜120年という超スロー成長で、温暖化のスピードに種子の分散や世代交代が追いつかないのです。隔離集団ゆえ遺伝的な多様性も乏しく、変化に適応する力が限られている点も懸念されています。
こうしたなか、林木育種センターでは各山岳集団の種子・花粉を保存する「ジーンバンク」事業が進み、2025年時点で約60集団・1万系統規模の遺伝資源が確保されています。富士山・八ヶ岳・南アルプスの古木の年輪は、過去300〜500年の気候を高解像度で復元できる貴重な記録でもあり、古気候研究のデータとしても国際的に活用されています。
よくある質問
Q. ホンシュウトウヒとエゾマツは別種ですか?
分類学的には未決着です。伝統的にはエゾマツの本州型変種として扱われてきましたが、近年の遺伝研究で独立種とみる見解も支持されつつあります。見た目は非常によく似ています。
Q. どこで見られますか?
富士山五合目以上、八ヶ岳の縞枯山〜茶臼山周辺、奥秩父、北・南アルプスの亜高山帯で観察できます。登山道沿いに大径個体が点在します。
Q. 木材は買えますか?
ほぼ流通していません。商業伐採が原則禁止で、倒木・除伐材が楽器材や文化財修復材として希少・高単価で取引される程度です。
おわりに
トウヒ(ホンシュウトウヒ)は、氷河期の森が残した「生きた化石」です。エゾマツ並みの響板材としての実力を秘めながらも、いまや伐ることのできない保護林の主。木材としての価値以上に、山ごとに分かれた遺伝資源、亜高山帯の景観、そして気候変動の指標として、その存在自体に大きな意味があります。一つひとつの山の集団をどう100年先まで残すか——静かに、しかし切実な問いを私たちに投げかけている木です。

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